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以下は主観で書いているので、そこのところはご理解いただきたい。

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誰もが一度くらいはやろうと思ったことがあるんじゃないかと思われることの一つに、「リストカット」があるんじゃないかと思う。ないならないで幸せだ。とゆーかない方が世間一般に見てよろしいとされているはず。個人的には、そういう経験は絶対にした方がいいと思うのだけれど。

斯く言う自分もそう思った経験はある。どうしても動かせない壁――これは思い込みではなく、実際動かせない壁だった。動かそうとすれば動くには動く。が、動くと同時に土台もろとも全てが壊れる。確実に――その壁の前に立ち尽くすしかない自分に絶望して、面倒くさくなって死にたくなった。どうやって死のうかなーなんて考えて、風呂場にあった剃刀で手首切ったら死ねるんじゃないかなと思って、刃を手首に当てて、そこでおしまい。

痛いだろうなー血が出るんだろうなーお母さんどう思うかなー弟たち学校でなんか言われるんじゃないかなーとかとか、そうしたどうでもいい思いばかりが巡った。そして「なんだ結局怖気づいてるだけじゃん」と気付き、萎えて終わる――と、それが定番のパターン。でも本当にやろうとは思っていたのだよ。そのときだけは。

その時の気持ちは自傷欲求というより自殺欲求だった訳だけれど、その後度々「ああ手首でも切ろうかな」という思いが付いて纏った。死ねないのはわかっていた。死ぬんだったら手首を切り落とすくらいじゃないとダメなのは知っていた。それでも切りたくはなるのだ。つまりこれが自傷欲求なのだろう。

自傷欲求、自傷願望。これらは自殺願望等とはちと違うと思う。前者は「言えないけれど言いたい」が根底にある。後者は多くが「死んで終わりたい」というある種の逃避がある。逃避というと言葉が悪いかもしれないが、単に回避、いや、解決でもある。自殺は責められるべきものではないと思うがどうだろうか。

人はやっぱり誰かとコミュニケーション取りたいのだ。それができないときにそれらは起こる。伝えたい思いがあって、それが言語を使っては伝達できない、そう認識した時にそれが起こる。言わばボディランゲージの一種だ。ただあまりに鮮明な思いの発露なだけに、普通の人から見れば恐怖の対象でしかないのだが、それをやっている本人はそんなことお構いなし、ただ受け取ってくれーという思いしかない。

血を見ると落ち着くと言ってる人がいるが、それも似たようなものではないかと思う。非日常に浸ることで自己を現実から遠ざけながら、身を刻むという一見背徳的行為を行っている自分に浸る。自分は違うと認識する。自分は自分だと確認する。それは孤立を呼ぶが、そもそも孤立に拘るということは既に他者との交流欲求の裏返しだし、交流を求め活動した後の絶望による自傷であるならばある意味それは前向きだ。結局は自分を対象とした「自作自演の交流劇」であると思う。
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